小林よしりんが帯を書いていたので、どうかと思って読んだ。諏訪哲二氏は以前にも一冊だけ読んだ記憶があるが、まぁ、僕とは意見は合わないだろうと思っていた人で今回読んでみてやっぱり合わなかった。何人かの人への批判は理に適っている(寺脇~や義家~など)と思うが、斉藤孝や渡邊美樹氏への批判は正直あまり批判になっていない。批判されているはずの両氏の意見の方が正しく私には思える。
私自身は一学習塾教師として教育の世界の端っこに座っているわけだが、以前にも書いたがいわゆる「教育論」というものを持っていない。今は特に経営者として私の教育に対する見方は塾の理念に自ずと一致してしまうのでなおのこと、ない。今目の前に自分を必要としている生徒がいて、その生徒のおかげで私は生きていける。これは決定的に厳然たる事実であり、公教育に身を置く「先生」とは決定的に違う立ち位置である。当然、自分の考えを振り回すこともない(振り回すが従わせる事が目的ではない)し、逆にすべての生徒を受け入れる気もない。
私が公教育に対して抱く不満は高度資本主義社会の中では彼(諏訪氏)の言う「啓蒙教育」すら個人(親あるいは家庭)の選択に委ねられているという事実、そしてそれは明治以降の百年程度の歴史を持つ公教育の歴史よりも古いやり方だという点なのである。その意味で渡邊氏のように、その教育理念を市場原理に照らしてみるというやり方は決定的に正しいのである。だからこそ、斉藤孝氏は教育者として学校教師ではなくむしろ塾・予備校教師を最初に思い浮かべるのである。
私自身自分の教育観が絶対だと妄信など全くしていないが、塾を経営するために暫定的には絶対だとせざるを得ない。だから、当然その規模に見合った教育的責任感は持っているが、それを国家事業にする野心など全くない。おそらくここで取り上げられている人たちも大小の差はあれ、そういったスタンスではなかろうか。
ついでに言うと、日本の教育は決して壊滅的でも何でもない。マスコミが取り上げている以上にいまだにうまく機能しているというのが、現場にいる私の感想だ。そして、それはすべて当然日々現場で格闘している教師達のおかげである。私にはすべての教育論が忘れている大前提は啓蒙教育云々なのではなく、まさにこの事ではないかと思っている。
おそらくミネルバのフクロウはもうしばらくは飛び立たないのだろう。時間があれば哲学の勉強をしたいんだが…。無理だろうなぁ。